エスケイプ



似ている。
むこうは言葉さえ交わしたこともない他人だというのに、こちらからは手にとるように相手を知りすぎてしまっているという奇妙な違和感。この感覚を表現するとすれば、ひとりよがりの既視感とでも呼ぶべきか。
捕まえて細い胴に脚を絡めて唇を押し付けたい衝動に駆られるが、グラマーな身体でもなければ美少女でもないのでそれは許されない。



今年のクリスマスを共に過し、来年のクリスマスを共に過し、三十前半まで平穏に暮らし、四十あたりでそれぞれ風俗に走るという人生計画を企てていた男と今朝別れた。

<うまれた子供は郵送で送ります。ちゃんと面倒みてください。でないと殺す>と遺書を書き残し、ベランダから全裸でダイビングしようと試みたのだが、警察という障害が介入したせいで私は飛ぶことができなかった。苦しめるのはもうやめてくれないか、部屋で油を撒いてマッチを擦ったり、会社伝いにニシムラさんに電話をかけたり、彼女の部屋までストーキングしたり、挙句の果てに狂言自殺だなんてメロドドラマじゃないんだから、とあたかも被害者のような口調で溜め息混じりに男は嘆いたが、なぜ世間的に私が加害者扱いされなければならないのか納得がいかなかった。足をぶらぶらさせながら警察で調書を取られている間、反論というより疑問を解決するために口を挟みたかったが、八の字に垂れ下がった卑しい目の担当は世の中で信用できるのは自分の意見だけというような話し方をするタイプだったので、私は時が経つのを大人しく待っていた。頃合を見て時計から八の字の目の間に視線を移すと、どこでどう破綻したのか話の中には窃視だとか強姦だとか不謹慎な言葉が飛び交っていた。どんな経路を辿ればそんな話に至るのか、口を挟みたい好奇心を抹消して、一日中俯いてささくれを毟り取る作業に没頭した。生きるというのは毎あさ洗面台で歯を磨く三分間と非常によく似ている。

以前私は根拠もなく自分の内側には熱があると信じ込んでいたが、茨の森から目覚めると鏡に映っていたのは頭を爆発させてあらぬ方向に白目を剥いた女だったので、以来自信がなくなってしまった。
私以外のひとの手の中は大抵あたたかい。だから今日まで他人の熱を横取りして生きてきたのだ。

手、冷えてる。コーヒー飲む?



ジングルベルの陽気な歌声がそこかしこに溢れ、どの店も気取った装飾で客の目をひこうと躍起を起こし、薄笑いを浮かべたサンタクロースは街頭でティッシュを配っている。
見ず知らずの赤の他人はエスカレーターの下に隠れていくところだった。なんだ、ちっとも似てやしない。そう思ったとたん唇の端が痙攣し、たった今口に含んだコーヒーを、鏡の中で青白い顔に隈を拵えた女に向かって吹き付けた。殻になった缶を指先で弾き飛ばして休憩所を立ち上がると、右手に見えるエントランスの前で老人が仕切りに合図を送っている。頭の中で点滅している赤信号が紫色に変わる瞬間を待ち、言い訳には目の前の少女が左に逸れたことをこじつけよう、と考え、私は右折した。


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