野ばら



過去に遡るほど記憶が虚ろだ。どんなに悲しい経験、苦しい経験だったとしても、どれも一時的な感情の流れに他ならず、私は流れていくものをあえて防ぎとめようとはしない。楽しかった記憶や嬉しかった記憶はもっと思い出せない。
世間的に見て私はまだ、おそらく若いはずなのに。
でも、ずっと老いた少女だったような気もする。



卵焼きには砂糖を入れる童はうたう夜中のばら聞く耳もたず馬の耳念仏



「髪切ったんだ」

振り向くと不憫なほど冴えない学生服に身を包んだ黒い点のような物体が、似合うよ、と弱々しく微笑んだ。須芳だった。
髪を切ったのは昨日、おれ、髪の長い女が好きなんだ、という須芳の自惚れた発言が気に食わなかったので当てつけてやったのだということに気が付いていないのだろうか。もし自分が原因だと気が付いていながら声をかけているのだとしたら嫌味以上のなにものにも聞こえない。

「用ってそれ?」

貧乏揺すりがやめられない。見上げているのに見下げている気分を味わいながら今にも咽喉から飛び出しそうな笑いを押し殺して須芳を見た。須芳は黙って曖昧な笑みを浮かべている。
思い切り蹴飛ばすと中身のからっぽの机はあっけなく倒れてしまった。反撃する前に諦めてしまう静物の人生とはなんてつまらないものだろう。

「頼むから私に関わらないで」
「心配なんだよ辻村のこと!」

今更なにを心配すると言うのだろう、今まで散々見放してきたくせに。須芳の虚しい声を置き去りにして、無言で教室を出た。


時が経ち、須芳はついに私と目を合わせなくなっていた。もとからそこそこ顔がよかった須芳は、学級委員を任せられて自信をつけたとたん、女の子にもてはやされ始めたのだ。照れながらも親しみの持てる発言をする須芳はたちまち先生と学級の好感を買い、私たちの溝は深まる一方だった。須芳のことを有ちゃんと呼んで慕っていた幼少時代からこれまで、一度たりとも本気で須芳を手放したいと思ったことなどなかったと訴えても、いまさら黒い点には信じてもらえないだろう。
音楽室から合唱曲<鱒>の呑気な歌声が聞こえてくる。



卵焼きには砂糖を入れる童はうたう夜中のばら聞く耳もたず馬の耳念仏



なんでこんなことするの。
嫌いだから。面白いから。決まってんじゃん。

小学校のときの苦痛がフラッシュバックして身悶えしそうになった。毎日包丁を振り回す男の子たちに追いかけ回される、プロレスごっこと称して羽交締めをかけられる、ワンツースリー、オッケーはい罰ゲーム!
記憶の声を振り払うように大股で歩を進めていると、踊り場から突き落とされて私は階段を転がり落ちた。

「堕ちろ、宗教家」

背後の光と相対して、踊り場から影を被って見下ろしているのは河島結衣だった。小学校のころまでトイレも一緒に連れ立つほど仲良くしていたのだが、中学校に上がってからは口も利かなくなった。ことあるごとに取り巻きと共に私をあげつらうことに命をかけているようだったので、私も敵対して独立していた。

「贔屓されてるからって調子こいてるんじゃないよ。ピンク色の頭したクリスチャンなんて前代未聞だわ」

以前、登校して席に座ると、そこあたしの席なんだけど、と河島結衣に横から突き飛ばされてしりもちをついたことがあった。私はその列に存在するはずの机の数が足りないことに気がつき、もう一度尻で突き飛ばされたあとに、いいかげんいい子ぶるのやめたら、と擦れ違い際の河島結衣に吐き捨てられた。河島結衣は私の茶髪を地毛と認めるのが気に喰わなくて私が担任に贔屓されているに違いないと長いこと訝っていたが、私の頭がピンク色になると、以前にも増してあげつらう行為に執着するようになった。
私は立ち上がって影を見据えた。黒い点。やっぱりどうしても、私には自分以外の人間が染みのような黒い点に見えて仕方がない。
黒い点に飲み込まれてしまうことを恐れて髪の毛をピンク色に染めてみたけれども、わざわざそんな抵抗をしなくとも、生まれたときから自分は他とは違う種の生き物だったのではないか。人に殴られるのは、愚図だからではなく、自分が人間ではない生き物なのに人間の振りをして教室に紛れ込んでいたせいなのかもしれない。



卵焼きには砂糖を入れる童はうたう夜中のばら聞く耳もたず馬の耳念仏



音楽を流して頭に<魔王>の旋律をタイピングしながら小説の文字に目を這わせて意味を分解していくという荒業を身につけたので、同じ要領で聖書に向き合ったが、ものの数分も経たないうち諦めて投げ出してしまった。母親の執拗な勧めで中学生になってから毎日朗読している聖書は、ルビが振ってあるので読めたけれども、四月からきょうまでの間、意味を飲み込んで読んだことは一度たりともない。四隅に落書きの跡があり、<蟻の行列みたいな文字で聖書に綴るのは悲鳴をきくのもういやだから落ち着き払って今日も冷静と落胆して嘆く私は正気を捨てられない>とか、<あなたの内側はまるで九月の夕焼け私の口の中はいつだって蛙の粘膜けさ見た夢の記憶父親の顔見てひどくうんざりしかも曇り>とか覚えのない覚え書きのようなものが走っている。

蚊に喰われたふくらはぎを掻き毟りながら、帰り際に寄った売り地になっている祖母の住んでいた家を思い出した。雑草に囲まれて所狭しと木々がひしめき合い、廃屋は蜘蛛の巣だらけだし、足を踏み入れただけなのに九箇所も蚊に喰われてしまった。自分も幼少時代に住んでいたはずの家だが、こんなに狭い四角形のなかでくらしていた過去が本当にあったのだろうかと、どうにも訝らずにはいられなかった。都市で育った伯父は売り払ったとたんごく自然と買い取り主が現れるものと本気で信じているようだが、地方で同じことを望むのはみずから悲しい末路にダイビングする行為に他ならない。あそこは近いうち更地になるだろう。

電話が鳴った。
伯父からだった。

「このあいだ言ってた服、届いたから、取りにくればいい、愛はチョコパフェ好きだったよな、近いうちミーチェに食べに行かないか」

どうでもいいのにはしゃいでいる振りを演じなければならないのはなぜだろう。ポルノ雑誌の散乱する異臭の漂う伯父の部屋に入り込むことが苦痛でならないのに、また、素直に感情を表現できず見下ろす目線でしか物が言えない伯父に圧迫されることが苦痛でしかないのに、お金が欲しいから、服が欲しいから、利用すれば欲しいものが手に入るから、という理由で、喜んでいる振りをして承諾する。大体、チョコパフェが好きだなんていつの話やら。



卵焼きには砂糖を入れる童はうたう夜中のばら聞く耳もたず馬の耳念仏



伯父の葬儀をすべて終えたとき、正直安心した。これで伯父の色目から離れ、私は軽い売春行為をしているような罪悪感から逃れられるのだ。伯父にどれだけの金をはたかせたのか覚えていない。
都市に引越しをした先輩が葬儀の年だったことを知らず、年賀状を寄越した。

明けましておめでとう、お手紙ありがとう、とてもうれしかった、愛ちゃんも元気そうでなにより、私は今運送屋さんではたらいています、学校はやめました、いざこざがいやになったから、弱いね、夜のお仕事ほかにもしました、キャバクラ、私が化粧してお酒ついでるなんて想像できないでしょうね、私も自分に向かないって思ってやめました、弱いね、ごめんね、つまんないこと書いて、有くん元気にしてる、恋人がいるのにたまに思い出すときがあります、真面目で人柄のよい彼に私は片思いだったから、でも彼きっと愛ちゃんのことが好きなんだと思う、だから愛ちゃんも頑張って、お元気で。

無理やりにまとめようとしているような手紙だった。先輩と会う機会はおそらくもう二度とないだろうという気がしている。年賀状の枚数が年々減っていく。今年は先輩のたった一枚きり。



卵焼きには砂糖を入れる童はうたう夜中のばら聞く耳もたず馬の耳念仏



ああ神さま、どうかこの愚鈍な民をお赦しください、私を邪気からお救いください、私の人生最大の汚点はこの子に違いありません、ずっと思ってたのよ、私は、そうなんじゃないかって、恥晒しですよ、警察に突き出されるなんて、お姉ちゃんはこんなことなかった、聖体祭儀にだっていつも欠かさず出席した、でもこの子はだめ、夏休みのラジオ体操みたいなものだって言ってもきかないの、父親に似て強情なのよ、男の子みたいに刈り上げた頭がピンク色になっていたときなんかびっくりしちゃったわ、生まれ持った栗色の髪をわざわざ塗り潰すなんてクリスチャンの恥ですよあなた、母さんや兄さんが死んだときだって涙ひとつ流さなかった、非情なんです、愛なんて名前つけたの誰だったかしら、父さん? 愛なんてこれっぽっちも知りやしないじゃないですか、さんざん遊び惚けて、知ってますか女の子のあいだで売春みたいな遊びがはやってたんですって、中年を騙してお財布を掏るっていうの、信じられません理解できません、おまけに今度ときたら先生の愛車に火をつけたですって、カトリーヌが真っ黒焦げですか、真っ黒…咽喉で呟いて笑い転げた母親は転倒して教卓の角に頭を打った。おかあさん落ち着いてください。あなたにおかあさんなんて呼ばれる筋合いございません、母親の張り上げた金切り声は教室の隅に潜む影の中に飲み込まれていった。

どうして一生懸命な人の姿ほど、遠くに映し出されるスクリーンを眺めているような気持ちになるのだろう。スクリーン上であちらこちらに分裂する影。やがて一点になる黒い染み。カトリーヌと名前をつけて教師の溺愛していた車に火をつけたのは、教師が私のことを出来損ない呼ばわりしたためだ。私の行く手をなんとしても妨げようと邪魔をする河島結衣の教科書を燃やしてやりたかったので、車に積み上げて車ごと燃やす方法を思いついた。車と教科書は見事真っ黒な一点に。
中学校の三年間で内気な性格をすっかり変えてしまい、今では平気で授業妨害をするようになった須芳有紀は、私のしたことを耳に入れたとたんたちまち噂を広げ回るだろう。
私はまだ若いと思うのだが、私のまわりのものはどんどん離れていくような気がする。全部黒い点になって。私だけその点に吸い込まれない。吸い込まれたくないので自分自身に必死にしがみついている。卵焼きには砂糖を入れる童はうたう夜中のばら聞く耳もたず馬の耳念仏。私はずっと、なにかの呪文を唱えるように、あるいはお経を呟くように、口ずさみつづけた。外気が私をさらってゆかぬように。シューベルト作曲の<野ばら>の旋律に乗せた替え歌はいったいどこで耳にしたものなのか、どうしても思い出せない。近所の小さい子が歌っていたような気もするし、古い映画のなかだったのかもわからない。それといっても、私の今こうして遭っているちょっとした人生の妨げや、私のちっぽけなつまらない人生そのものと同じくらいくだらないことなのだけれど。

私は遠い目の前に繰り広げられる灰の織り成すとびきりつまらないミュージカルを眺めていた。けっきょく私は何者なのだろう。私はそれだけを知るために今なお息をしているようなものだ。


191208