家鴨



先生は大人だ。
大人のいうことはキチンと聞いてくださいね、と先生はいった。
先生のいうことはキチンときかなければならない。
私はもう大人なんだって、二つ年上のマリちゃんはいった。
マリちゃんのいうことはキチンときかなければならない。
ノイローゼも大人だ。
ノイローゼは、街へ出てミレーナでもして親孝行をしなさいといった。
ノイローゼのいうことはキチンときかなければならない。
ミレーナをつけなければならないといったのは先生だ。
ミレーナをつけて親孝行をしろといったのはノイローゼだ。
マリちゃんによると、この国の女の子は、小学生からみんなミレーナをつけるんだって。それが当たり前なんだって。
「家畜がうじゃうじゃいる国」なんだってさ。


マリちゃんの命名した「犬殺し」という遊びは、残留している記憶の限りもっとも楽しかった思い出だ。野良犬を駆除して肉屋に売りに行くのだ。家にいるとノイローゼの母親が仁丹を舐めながらつまらないことを繰り返すので、母親から病気を貰わないように私は毎日外を出歩いている。それが一番だよ、そうマリちゃんもアドバイスをくれる。そして、外にはマリちゃんがいた。

「アサコ、ついてきな」
「どこ行くの」
「いいからついてきな。面白いから。行ったら絶対面白いから」

マリちゃんは盗んだ自転車に乗っていて、自転車で私を轢き殺すまねをした。小屋から自転車を引っ張り出してきて、私は自転車に跨ってマリちゃんの後ろについた。マリちゃんを先頭に小学生の私たちは深夜の高速を駆け抜けた。

二人で自動車をこいでいるとき、突然マリちゃんは急ブレーキをかけて停止した。向こうからやってきたオッサンが、マリちゃんのミニスカートの中を覗き込んだと言うのだ。マリちゃんは、オッサン視姦料払いなよ、と追い回しそうな勢いで、興奮しながら「絶対見た!」としばらく騒ぎ立ていて、地団太を踏んだりしているんだけど、それは見ようによっては喜んでいるようにも見えてしまう。ごく稀に私はマリちゃんの言うことがよくわからないときがある。私には理解できないくらいある種のことに執着して、忘れたころに再び執拗に繰り返すのだ。そういうマリちゃんを見ていると、この人はもしかすると脅迫神経症なんじゃなかろうかと思うことがあった。そんなときは唯一信頼しているはずのマリちゃんのことが理解できなくて最高に不安になって恐い。それまで足をつけていたはずの地面が抜け落ちてどこまでもどこまでも奈落の底に落ちていく感じだ。そう告白したらマリちゃんは、それってアサコの頭がいかれてるんだよ、早いとこその神経叩き直さないとマジヤバいよ、といった。マリちゃんに深刻な顔をしてそう言われると、それもそうかもしれない私の神経ってマジヤバイのかもしれない、という気持ちになってくる。マリちゃんは、あのオヤジ本当にムカつくよ、となお粘っていて、私は、そんなに気にするならジーンズを穿いてくればいいじゃない、と言いたくなるが、おせっかいを焼くと不必要に手を加えて食物連鎖を乱してしまうような気分になるので、私は自分から口を挟むことはあまりしない。しりとりの中にライオンは登場しない。銀シャリが無ければハンバーガーにかぶりつけばいいじゃない、とマリちゃんもよく言っている。
やがて見えてきた貧相なアパートの前でマリちゃんはブレーキをかけ、私にむかって自転車を止めるよう顎で促した。

「ここどこ」
「パパんとこ」
「お父さん仕事じゃないの」
「今のは四人目。パパは本当のパパ」
「怒られたりしないかな」
「バカ、娘が会いにきたのに怒鳴る父親なんて人間のクズなんだよ」

マリちゃんに小声で訂正されると、それもそうかもしれない娘が会いにきたのに怒鳴る父親なんて人間のクズのかもしれない、という気持ちになってくる。鍵を開ける前にマリちゃんは私に妙なことを忠告した。

「家入ったらパンツ脱いでね」
「なんで?」
「海外のドラマ見たことないの? 家入る前に靴脱ぐでしょガイジンは。あれと同じようなもんだよ」

マリちゃんにこんなことは五歳の子が一人でトイレに入れるのと同じくらい常識なのだ、といった顔で教えられると、それもそうかもしれない見ず知らずの他人の家に入ったらパンツを脱ぐのなんてガイジンの風習と同じなんだ、という気持ちになってくる。マリちゃんが合鍵でドアを開けて家の中に入ったので、真っ暗の部屋の中で私は吊りズボンを頭から脱衣して、言われた通りにパンツを脱いだ。ドアの向こうにそのまたドアがあって、照明はひとつもないがテレビの明かりがドアの向こうから漏れている。マリちゃんが大声で叫んだ。パパァーパパァー、アヒルだよー、アヒルだよー、約束のアヒルを連れてきたよー。


あのあとどうしたのだろう。どうなったのかもわからないし、どうやって家に帰ったのかも覚えていない。アヒルなんか持っていった覚えもないのに、アヒルと叫んでいたマリちゃんのことは、もっとわからない。ただ、いつだったかマリちゃんが、今時ミレーナつけてない小学生って珍しいよね、といったことだけは記憶している。ミレーナって何、と聞いたら、ママに聞いてみたら、と返されたので、吊りズボンのポケットに押し込まれていたお金を握って家に帰って、ノイローゼに聞いてみたら、彼女はトローチを舐めながら全身を揺さぶって大笑いした。あんた、街へ出て臓器なりなんなり売って、たまには親孝行でもしてみたらどうなの。今なら一回手術すれば十万円で五年間効果が続くミレーナっていう避妊具もあるんだよ。

ポケットに押し込まれていたお金を病院に支払って、何時間もおなかの中を棒で掻きまわされたあとに、学校でミレーナを義務づけられた。朝子さんのようなことがあるといけないから、まだミレーナをつけていない女子のみなさんは、お母さまにお話しして、お医者さまにいってミレーナをつけてもらいましょう、さもないと朝子さんのように病院で何時間もおなかを掻きまわされて痛い思いをすることになるので覚悟しましょう、いいですか、外には危険がいっぱいあります、くれぐれも、大人のいうことはキチンと聞いてくださいね、吉田くん、あくびをしない。


私はもう大人なんだって、マリちゃんがいつかいっていた。年上のマリちゃんがいうことは説得力があるので、マリちゃんは大人なんだなあ、すごいなあ、マリちゃんのいうことは何でもキチンと聞こう、という気持ちになってくる。私も早くマリちゃんのような大人になりたい。男の人をたくさん連れて、命令ひとつでどんなことでも叶えることができて、この国の法律を定めることができるような、立派な大人に。


21/03/02